「当事者意識というもの」


確かにITは道具なのだが・・・

「ITなんてしょせん道具なんですよ!それよりも中身です!」
「そして最後は結局そこに携わる人でしょう!」

なんだかよくわからずにITさえ導入すれば何とかなると思っていらっしゃる方々はいまだに大勢いらっしゃいます。そんな大きな勘違いされた方々の目を覚まさせるために、冒頭に挙げたようなセリフはよくつかわれますね。
ただ、最近このセリフを聞くに、鼻につくような、妙に陳腐な感じがしてしょうがないのです。
「おいおい。ちょっとまてよ。」
「ホントか?何か分かったようなことを言っているようだけど、単に人から聞いた風なことを、たいした考えもなしに使っているだけではないのか?」
みたいな感じなのです。
しかも「しょせん」なんてちょっと斜に構えた批判のニュアンスを持たせていること自体が、いやな気がします。
と同時に、昔の剣豪や文筆家が、その道具である刀や筆を人一倍大事にしていたり、あるいは、現代のトップアスリートたちが、競技につかう道具を命と同じように扱い、よい仕事をするために手入れを怠らない・・・といったような話を聞くに、ますます「しょせん道具」なんて簡単に片付けたくないような気がしたりするわけです。

最近ふと、そんなことを感じることが多くなりました。(ただのあまのじゃくかもしれませんねえ)。

さらに、冒頭の同じセリフを5年前に使うのと今使うのとで、実は周りの反応が微妙に違っているような気さえしています。
どういうことかというと、5年前では「えっ!?」「あ、そうだった」「気づかなかった」という、虚をつかれたという感じの反応が多かった用に思うのです。そして、そんな反応を見ながら、このセリフを使った人間は「俺はこんなに本質を押さえていたんだぞ」といった、得意げな表情を浮かべている。そんなシーンが多かったように感じます。
ところが今同じようなセリフを言うと、「何を今さらそんな事を」「当たり前のことじゃないか」という反応が増えてきていると感じることが多いのです。


これはどういうことか?

まず、多くの人々は,徐々にかもしれませんが本質を理解できてきている(確実にレベルアップしてきている)のではないかと思います。一方で、冒頭のセリフを語っていた、少なくとも5年前にはそれなりのスキルと自信を持っていた人進化が滞ってしまっていた。ということかと思うのです。
もっというと、過去の栄光(というほどでもないか)にいい気になってしまっている?ちょっと前に,それなりの知的レベルに居たということであぐらをかいてしまっている?しかも、周りの変化に気づかずにレベル格差が縮まっているのを認識していない、ということかもしれません。

そしてもう少しましな人は、

「道具としてのITを最大限に生かしながら
 ・業務をいまよりも良く変えていくことができるか
 ・組織の文化を変えていることができるか
 ・人の考え方を変えるか  ・・・」

などといった、きわめて当たり前のところを語ってくれるのではないでしょうか。


誰もがわかっているのにできないのはなぜか

では、この「もう少しましな人」について、見ていきましょう。
たとえば、このような「きわめて当たり前のところ」についてですが、単なる「能書きたれ」なのか,「実際にできる人」なのか−−−その違いは雲泥の差があります。「実際にできる人」あるいは「実際にやろうとする人」であったならば、たとえ一時的に能書きをたれたにしても、聞く人の心に響くような「本物感」が伝わるのではないかと思うのです。

いや、ここでもう一度先の「きわめて当たり前のところ」であげた項目を見直し手見てみてください。これって本当に当たり前のことなんでしょうか?たしかに能書きとしては正しい、しかしなんか、この現実感というか、リアリティというものがない。

なぜか?

これだけだとビジネスに直接的に結びつく姿が見えてこないのですね。言い方を変えると、お金儲け(というと非常に汚らしい感じがしますが)につながっていく流れが見えないということなのです。もっときれいに言えば、ビジネスの先に存在するはずのお客様を意識した言葉になっていないのです。これじゃあ、いくら美しい能書きをたれたところで、それを聞く人々の心には響きません。

では、何が「本物感」を生み出すのか?心に響く言葉になるのか?
これは、実はきわめて簡単です。すなわち「当事者意識をもった言葉」かそうではないかということなのです。
ただ、ここでさらにしつこく言うならば、「本物を見分けるポイントを指摘するだけであればやはり簡単」だということですね。ポイントを指摘するのと実際に自ら当事者意識をもって相応の行動ができるのとは、やはり別問題なのです。

現実には、わかってはいるけれどもできないというケースが圧倒的に多いと思います。下手に考えすぎたり、他の人の目を意識しすぎたり、といいながら、実は自分が意気地なしなだけだったりということかもしれません。もしくは、最終的に自分が責任を取りたくないがゆえに、当事者からあえて一線を画して「見えない壁」のようなものを作ってしまうという、とてもずるい考えも実際にはあります。


当事者意識を持つためには?

そのような「当事者意識」を持つためには、「見えない壁」を破るために何が必要なのか?
結局は、自ら勇気を出して、思い切った一歩踏み出してみることでしょう。その一歩が「当事者」になるための最大かつ必須な条件なのです。
わかったことを言うんだったら自らが実際に手本となるようやってみる。
相対する意見に反対をするのならばしっかりと対案を出す。
当然そういったアクションを起こすためにはじっくり考えることも必要です。自問自答を繰り返すこともあるでしょう。さまざまな準備したりすることを怠ってはいけません。そしてそれらはみな、当たり前のことなんです。あたりまえのことをちゃんとやりましょうよ。そうでなければ単なる無責任でしかないんですよ。

・・・・そうした積み重ねが、徐々に「本物感」を醸し出していくのではないかと思うのです。そしてさらに、そういったアクションがビジネスにつながり、やがて大きな実を結ぶことになるのです。

ところで、これはITに限った話ではない?

最近のテレビや雑誌、新聞での報道を見るにつけ、評論家(あるいは批評家か?)とよばれる方々がさもすべてを知ったかのように物事を語っています。でも、どうもそれってにわかに信じがたいなあと思ったりすることが多いのです。ITに限った話ではないですね、これは。なんか、人のさがというか、普遍的な、ちょっと気を抜くとふっと顔を出してしまう本性みたいなものなのかもしれません。

そんな中あえて、ITを業務に活用する方々、ITを構築する側の方々、ぜひ当事者意識について改めて考えていただきたい。そして、自らしっかりと考えて動ける人々がもっともっと活躍でき、また評価されるような、そんなまっとうな世の中になっていければいいなと強く感じています。



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